2008年6月24日火曜日

読めない!

KYという言葉ももう古い部類に入ってしまったが、小生には関係ない。
最初は「?」と思っていたのだが、どうやら「空気が読めない」という意味だそうな。
驚いたのはそれをKYと略したからではなく、「空気を読む」という感覚が今の日本人にあることに驚いた。
詳しくは山本七平氏の著書に述べられているが、日本文化の悪いところは「その場の空気」というものだとワタクシも思う。
「そういうことを言える空気ではなかった」という言い訳がまかり通る社会とは、数十年前に「バスに乗り遅れるな」という新聞社の煽りに乗って我が国を日華事変、ひいては大東亜戦争へと追い詰めていったことは紛れもない事実だと思っている。
もちろん、ワタクシは非戦論者ではない。戦争は国策として、または外交上の最終手段として用いることのできる権利であり、選択肢だと思う。しかし、そういう空気になったと国民が感じていたのはなぜか?
ワタクシはそちらのほうが気になって仕方がない。
今と全く異なる情報の伝達速度と深度であったにもかかわらず、その空気がなぜ伝染したのか?それは唯一の媒体であった新聞のなせる技であったと思う。
もちろん、今でもそれら新聞社は相も変わらず反社会的は文章をさもインテリな振りをして放っているが、私が思うに、もう手の施しようのないところにいるのではないかと思う。
もちろん、テレビなどはなおのこと反社会的とも言える。
それでいてそれらの職業に就いている者たちは自分たちこそが真実であり、事実であると信じているところが妙に悲しい。
こういうことは別に先の戦争を例に挙げなくても他に枚挙をいとわない。事業が悪化してゆくのもほとんどの場合、空気が原因である。

空気など読む必要はない。思ったことはきちんと述べ、良くも悪くも意思の疎通を図ることこそ重要である。
ところで、AYという言葉を使った人がいた。「敢えて読まない」だそうだ。ある意味感服した。


先日、報道機関を叩くのはなぜですか?という質問を受けました。
ラジヲは叩いたことはありません。
もっとも、テレビや新聞社を「叩いている」わけではありません。忌み嫌っているだけです。
一部の出版社も含まれます。

数年前ですが、ワタクシのところに新聞の勧誘が来ました。戦争が好きだった新聞です。
「広告がないのなら購読してもよろしい」と答えたのだが、折り込み広告のことだと思ったらしい。
実は雑誌でもそうなのだが、広告が嫌いだ。消費財の事業に携わっていた人間とは思えない発言だが、ワタクシとしては消費者というものは流行などよりも製品の知識を広めるべきであると考えているのだから仕方ない。
品質の優れた製品を多少値が張ってでも購入し、長く使う。または信頼できる食品を選択する。
良くある例では、スーパーマーケットで品定めをするとき(特に生鮮品以外など)に、読みにくく書いてある成分表示を裏返して確認するのがときおり面倒にさえ感じられる。
まぁ、毒が入っているわけではない。偽物が含まれているだけだから。
しっかし、食品の表示、ものすごく読みにくい。空気ではなく、こちらは是非読みやすくして欲しいものだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿