広島に移って4年が経とうとしています。
広島に詳しくなったかといえばぜんぜん。ははは。
あまりウロチョロしていないからなんですが、その理由はなんなのかを考えてみました。
飾られたものが嫌いなんですね。いずれ変わると思ってるから。
たとえば、社寺仏閣。そのものには興味あるのですがその周辺にちらばっているお店が目に痛いんです。記憶の中では目的のものと一体になってしまうから、次に見た時になにか違うと感じてしまう。
広島から東京に出張で来た時にも似た感じがあります。
わずか4年という歳月は徐々に記憶を薄れさせて、観光客と同じレベルになってしまったようです。
渋谷駅で遭難する、街を歩いていて見覚えのある建物を探す。とかは日常茶飯事になってきました。
街並みが全く変わらないはずの世田谷でさえあれ?っと思えるような一角が出現していたりしますから、もう自分はここの人間ではないんだなと痛感します。
だからといって広島に詳しくなったわけでもないですし、古い記憶だけが奥底にしまわれているだけで自分はどこのひとなんだろうと悩むことになるわけです。
広島に詳しくなったかといえばぜんぜん。ははは。
あまりウロチョロしていないからなんですが、その理由はなんなのかを考えてみました。
飾られたものが嫌いなんですね。いずれ変わると思ってるから。
たとえば、社寺仏閣。そのものには興味あるのですがその周辺にちらばっているお店が目に痛いんです。記憶の中では目的のものと一体になってしまうから、次に見た時になにか違うと感じてしまう。
広島から東京に出張で来た時にも似た感じがあります。
わずか4年という歳月は徐々に記憶を薄れさせて、観光客と同じレベルになってしまったようです。
渋谷駅で遭難する、街を歩いていて見覚えのある建物を探す。とかは日常茶飯事になってきました。
街並みが全く変わらないはずの世田谷でさえあれ?っと思えるような一角が出現していたりしますから、もう自分はここの人間ではないんだなと痛感します。
だからといって広島に詳しくなったわけでもないですし、古い記憶だけが奥底にしまわれているだけで自分はどこのひとなんだろうと悩むことになるわけです。
こんなことになったのは行動半径が広すぎたからでしょう。
建物やお店のディテールでは覚えてなくて、なんとなく全体で、で記憶してるようです。
いずれもなにかしらの記憶のヒントがあったりするんだけど、ある日突然、既視感とまではいかないけど、どこかに似ていると思った途端にそこはお気に入りの場所ではなくなってしまう。気が変わりやすいというか、短気というか、ネガティブな感じだけど、場所のことだからね、それでイイのかなと思っています。
もう一度あの風景を見たい、と思って行ったとしてもあまりに期間をあけてしまうとピンとこないに決まってる。だからあまりにも年月をあけてリピートするのは良くないのかもしれない。
たとえば昔の恋人がいまここに当時のまま突如現れたところでフツーは好きになるわけないと。なんてずっと思ってたんだけど、思っていただけで整理がつかないままオトナになってしまっていたのかもしれません。つまり、自分の中ではそれを遠ざけていただけで終わらせていなかったのかもしれないのです。
ひとはそれを未練というのかもしれませんが、特にいろんな趣味やらなんやらはそういうことの積み重ねでとっ散らかっているのだと思います。風景は動かないと、不変だと信じ込んでいた自分がアホらしいです。
ひとはそれを未練というのかもしれませんが、特にいろんな趣味やらなんやらはそういうことの積み重ねでとっ散らかっているのだと思います。風景は動かないと、不変だと信じ込んでいた自分がアホらしいです。
絶対に動かないであろう風景、雪が降る直前の蓼科に抜ける道すがらカラマツの幹がパキパキと割れていくのを耳を澄ませて聞いていた場所さえ思い出せなくなってしまった。
もっと通えばよかったよ思うのだけど、周囲がそれを許さなかったり、なんやかやと理由をつけて先延ばしにした結果のロストだからいま思えば痛い。原始林のあの風景は変わるはずないのにいろんな記憶が多すぎて今度は道がわからなくなってしまった(笑)
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